moundtailのブログ

『人生のマウンドに立つ人を応援する』をコンセプトに掲げ、母親支援を中心に、子育て・医療福祉・組織開発の分野でケアラーズケアをしている女性経営者のひとりごと。

世の中『なんとなく』でできている

昨日のことについて、今日小学校に伺った際に教頭に改めて聞いてみた。

わたし「昨日のことってなぜだったかわかりました?」

教頭「配慮が足りなかったと言っていました」

これ以上の返答がなかったのでなんとも言えないが、昨日の推測通り、合理的でない「なんとなく」の指示だったということだろう。それとも、カドが立たないように非を認めたカタチにしておこうということだろうか。

 

世の中は『なんとなく』でできているな、とつくづく思う。

 

わたしは小学校のPTAの役員(総務監査)も仰せ使っているが、PTAで行う行事などについて役員会議で決める際、会長と副会長3人(副会長3人も要るか?)の4人で事前にアウトラインを決め、「〜ということをやろうと思うのですが、どうですか?」と会議に議題を持ってくる。

会議では当然いろんな意見が出て、会長・副会長の事前打ち合わせの通りの方向性にならないこともある。が、その場で出た意見は宙ぶらりんのまま、事前打ち合わせの通り着地してしまう。

わたしはこれが気持ち悪くて仕方ない。

結論ありきで会議で承認だけ欲しいのであれば、報告というカタチにして欲しい(当然反対意見は出るだろうが)。カドが立たないようにカタチだけ議論したように見せかけるのは詐欺的だし、はっきり言って時間の無駄でしかない。全員夕食の時間帯に家事育児を放り出して出席しているのだ。

一度、会長に「副会長と話した後に会議にかけるのは何か意味があるんですか?慣例だからですか?」と聞いてみたことがある。

PTA会長「あー、なんでだろ?慣例かな?なんとなく?」

PTAの会長や副会長をやるような人は、当然PTA活動に熱心な人が多い。が、保護者には、それぞれの家庭には、個別の事情があり積極的ではない人、積極的には活動できない家庭が存在する。副会長以上で事前に打ち合わせをすると積極的な意見ばかりがエコーチェンバーになり、事情のある人でも一緒に活動するにはどうするか、の部分が抜け落ちてしまいやすい。また、事前に方向性が決まっていることで、会議のメンバーは自分の頭で考えることなく「なんとなく」事前の方向性に乗ってしまいやすい。つまりは『根回し』だ。自分の頭で考える能力を奪い、本質的でない方向に議論を持っていく。実に日本らしい。国政と一緒だ。机上の空論、上部だけ綺麗な言葉が並び、結果的に『いい人』に仕事が集中して苦労する羽目になる。そうやって苦労している人を遠目に見て、『やっぱりPTAは大変なんだ、めんどくさいんだ、手伝わなくてよかった』と、消極的な保護者を増やすことにつながっていないだろうか。

監査の立場から、上記のように進言してみたことがあったが、積極的な副会長(会長は穏健派)に無視されるようになった。わたしを無視したところで、PTA活動が良くなることはないのだが。副会長がいなくなったタイミングで粛々と体制を変えていくしかないだろう。この地域に住み続けるかもしれない子どもたちに、親になった際の負債を残していきたくないのだ。

 

こういう、本質的でないことに反発するようになったのは、いつ頃だったかなと考えていると、思い出したことがある。

 

大学生の頃、スナックでバイトをしていた。

そこはわたしの通っていた大学の先生が懇意にしているお店で。いつもはママが一人で回しているが、忙しい週末だけ学生を使いたいとのことで、使い勝手の良さそうな学生を先生が選んでバイトに送り込んでいた。わたしがバイトを始めたのは、1年生の終わり頃。通常2〜4年生が一人ずつ2〜3人いれば手は足りるのだが、その年はわたしの上の学年でちょうど良い人材が見つからなかったらしく、1年生から誰か見繕うということになったらしい。進級のタイミングで大学の寮を出て一人暮らしを始める予定だったわたしは割のいいバイトを探しているところだった。

一応断っておくと、スナックとは名ばかりで際どいドレスを着ることもなく、出てくるのは居酒屋に近いメニューでママも「ガハハ」と豪快に笑う人だった。1年生ではお酒も飲めないので、ホールや掃除などの雑用が主な仕事。バイト未経験だったわたしは苦労しつつも懸命に仕事を覚えていったのを覚えている。が、ママと馬が合わなかった。3年生の先輩がとてもママと馬の合う人で、図らずもわたしと先輩への対応の差が明確になっていった。

「トロい」「仕事ができない」「気が利かない」と言われるのは日常茶飯事で。お盆に帰省する際には「(帰省先が)県内なんだから店を手伝うのが当たり前」「実家ばかり頼って依存的」と言われた。同じ県内とはいえ、大学のある市と実家のある市は車で片道2時間以上かかる。車を持っていないわたしは、電車を乗り継ぎ車と同じくらい時間をかけての帰省となる。別に実家と仲がいいわけではないので、特段帰省したいわけではなかった(事実、帰らないとうるさいので盆正月だけ顔を出す程度)が、バイトに行くたび罵られれば、帰省を理由に休みたくなるというもの。

一方の先輩は帰省するとなれば飛行機の距離。「盆正月しか帰れないのだからご両親に顔を見せてきなさい」と笑顔で送り出される。

同市内出身の子であれば、お盆中も手伝ってほしいというのはまぁわかる。わたしと先輩、確かに移動距離は違うが、大学のある地から離れて帰省することに変わりない。ママは『県内』と『県外』では違うというだけでこのような論調になった(馬が合わないのもある)のだろうが、論理的ではない。

先輩はいい人で、これを笠に着ることもなくわたしには同情的に接してくれていた。

卒業生は皆大学に用事があって出張した際はそのお店を訪ねるようだが、わたしは卒業した次の年に少し顔を出したのを最後に行っていない。毎度罵られていたお店にわざわざ訪ねていきたいとは思わない。

 

『なんとなく』が悪いわけではない。

ポジティブな状況での『なんとなく』は大きなパワーを持っていることが多い。

「なんか説明できないけど好き」「言葉で表現できないほど可愛い」「なんとなく惹かれる」

こういう場面での『なんとなく』は直感に従った時に発揮される大きなパワーがある。

一方で、状況や感情に流されて『なんとなく』やったり言ったりしていることがないか、それは本質的か?自分の頭で考えられるようにしていたいと思う。